銀の時計
ある晩のことでした。
シンデレラはお城のバルコニーから臨む湖を眺め、かつて自分が暮らしていた街に思いを馳せていました。王子さまは隣国の王子と狩りに出掛けているので、久しぶりに独りきりで過ごす夜でした。
ふと、隣に誰かの気配を感じて振り向くと、それは昔かぼちゃの馬車とガラスの靴を用意してくれた魔法使いでした。「お久しぶりですね、シンデレラ。…いえ、この呼び方では失礼にあたりますね。プリンセス。ご機嫌いかがですか。」
まぁ とシンデレラは驚き、魔法使いを見つめていました。魔法使いはそんなシンデレラの様子を見ながらこう続けます。
「今日は、貴女にプレゼントを持って参りました。」
彼はポケットから小さな銀の懐中時計を取り出し、彼女に手渡しました。ネックレスのような華奢なチェーンがシンデレラの手首を伝ってさらさら と音を立て、時計は青白い月の光を浴びて鈍く光っていました。
「蓋を開けてはなりません。」
魔法使いの言葉に、シンデレラは手を止めました。
「もしもこの先、貴女が『今この時を全て手放しても良い。あの時に戻りたい。』そう思うときがあったら。この懐中時計の蓋を開いてください。この時計は魔法の時計。貴女が心から望む時間に誘い、閉じ込めてくれることでしょう。」
シンデレラはじっと時計を見つめていましたが、やがて呟くように尋ねました。
「本当にこの時計は、私が望む時間の中でずっと過ごすことを叶えてくれるのですか。」
「貴女が心からそう望むのであれば。」魔法使いはそう答え、静かに微笑みました。
「シンデレラ。僕は貴女が時計の蓋を開くことはないと思う。いや、あって欲しくない。でも僕は。もし貴女が苦しんでどうしようもない時は、少しでもその辛さから救われて欲しい。逃げても良い場所があって欲しい。ここは逃げる場所がない。貴女が何を思ってるか、感じてるかなんておかまいなしだ。」
冷たい風がさっと吹き抜け、二人の頬を撫でていきました。
「そうね。」シンデレラは顔をすっと上げ、湖より遥か遠くを見つめながらこう続けました。
「…私ね、貴方に会って魔法をかけてもらった時に決めたの。私の幸せは私が決める って。この時計の蓋を開くことはないわ。きっと。でも、いつもそう思えるかは分からない。だから賭けてみたいの。自分自身を。それでも良いかしら。」
「構いませんよ。そろそろお別れの時間です、シンデレラ。ごきげんよう。」
「ごきげんよう。」
魔法使いは夜の闇にすっと消えていきました。銀の時計はシンデレラの手に包まれ、柔らかく鈍く光っていました。