シャッターチャンスを探して

探しているものはきっと、日常の中に。

自分にとって書くということ

1つ前の記事で、書いては止め を繰り返した結果、いくつかのブログを

ネットの海の藻屑と化してしまったのであるなぁ ということを書いたのですが。

 

ここで自分にとって「書くとは何か」を改めて考えてみると面白いかもしれない。

そう思いました。

 

 

 幼い頃から本を読むのは好きだったのですが、文章を書くのはとても苦手でした。

特に、意見文や感想文は苦手を通り越して苦痛でした。

小学校の頃、よく国語の単元が終わるたびに感想文を書かされた記憶があるのですが、

あれが一番嫌いでした。

載るんですよね。学級通信に。

何回かに分けて全員分。

 

「私、なんでこんなに考え方浅いのかな…。」

「私、こんなことかけらも気付かなかったな…。」

クラスメイトが書いた文章を読みながら、子どもながらそんなことを思っていました。

こんなことしか書けない自分がみっともない という気持ちや、それが学級通信に載って

他の人に読まれるのが嫌だ という気持ちでいっぱいでした。

 

今思うと なのですが、元々「自分はこう感じてて、こうだからこう思う」というのを

表現するのが極端に苦手なんだと思います。

一昨年のある出来事によって自らのこの問題に向き合うこととなり、去年の今頃から

じわじわと「どうしたら良いのか」を模索し始めて、今年の夏になってようやく

少しずつ進めているようないないような という状態が続いています。

 

自分にとって書くこと(特に長文で自分の意見や感想を書くこと)は、自分の中に

あるものを底の方から掘り返していくとても根気のいることだと思っています。

 

でもその一方で、物語を書くことにはずっと憧れを抱いていました。

面白い話。胸が詰まるような話。なんだか懐かしさを覚えるような話。

遠い場所の話。ファンタジー。ノンフィクション。

そういった読んだ人がどこか心揺さぶられるような、いつかふとした瞬間に

思い出すような、そんな話を1つでも残せるようになりたい と思いました。

 

今でも印象に残っているのは、中学生の頃に国語の教科書で読んだ「トロッコ」と

高校生の頃(これも教科書に載ってて暇つぶしに読んでたのですが)「鏡」という

話です。

 

「トロッコ」は少年がトロッコを押してる人に「一緒に押そうか」と声をかける

ところから話が始まります。

で、ただひたすら一緒にトロッコを押していて、夕方で暗くなるなあ という時に

なって突然「我はもう帰んな」なんて言われて来た道をひたすら走って帰る。

で、かつて少年だった語り手はふとした瞬間にそれを思い出す。

たったそれだけの話なのですが、読んでいて目の前にぱあーっと景色が浮かび

上がってくる感じがして、なんだかそれがとても印象的でした。

だんだんと時間の経過とともに景色が変わって、差してくる光の色が変わって影が

濃くなっていく。そんな感じが淡々と伝わってくるのがたまらなく好きでした。

 

 

「鏡」は村上春樹さんの短編なのですが、授業で取り上げられることはなく。

(とても残念)

現代文の授業で当てられない時とか暇だったりしたので、その時に何回も

読んでました。

あるパーティーか茶話会かは忘れたのですが、ゲストたちが色んな話をひととおり

披露し終えて、その集まりの主催者である男性に何か聞かせてくれ と頼むところから

話が始まるんですね。

で、主催者である男性が若い頃にやった学校警備のバイトであった出来事を

語り始める…という感じの話です。

夜の鏡ってなんだか異質ですよね。

午前0時越えたあたりから夜が明けるまでの時間とか特に。

もうね、読んでて情景といい、語り手の男性が感じたであろう雰囲気とか、そういう

ものが漏れ出してるあの感じがたまらなく好きだったんです。

 

正直、学校の国語と道徳は嫌いだったのですが唯一例外があって、それが高校3年の

現代文の授業でした。

席順に当てていく先生だったのですが、当てる時間が長いんですよ。

席順に当ててく先生って、だいたいは1つ当てては はい次ーみたいな先生が多いと

思うんです。

そのやり方は悪い とは思わないのですが、前の人がどう答えるかで割と次の人が

どう答えるかが決まっちゃうところって存外あると思うんです。

ただその先生は、ある程度区切りの良いところまで同じ人に当て続けて、それから

次の生徒に当てる という方式でした。

クラスメイトの大半はその方式に対して「えぇー。めんどくさ。」と思ってたよう

ですが、私は「自分はその文章をどう読んだのか」を自分なりに一生懸命、言葉に

してみようとするその時間が結構楽しくて、その授業が楽しみでした。

(自分が当たりそうな回は特に)

 

 

あれ、何の話でしたっけ…?

…そうそう、「自分にとって書くということ」とは。そんな話でした。

悪い癖です。気がついたら脱線してるんです。

 

 脱線しながらも久しぶりに、自分は何を思っているのか ということを書いてみて

思ったのは、相変わらず根気のいることではあるけれど前よりも少し楽しいかも

しれない ということでした。

そもそもなんのためにこのブログ始めたんだっけ?と振り返りも込めて過去の

記事をいくつか読んでみると、書き始めた頃にこんなことを書いてました。

 

 

去年、いろんなことがありました。

私の人生の中で1つの節目になった出来事や気づきも多くありました。

 

そういうターニングポイントって、その場で気付くこともあれば、

あとから振り返って気付くこともあると思います。

 

それに気付いたとき、どれだけうまく自分のなかに落とし込めるか。

言葉にできるか。

残しておくことができるか。

それが大切なんじゃないかなって。

 

そういうシャッターチャンスは日々の生活の中にもたくさんあって。

忙しさにかまけてつい、通り過ぎてしまうこともあるけど、

時々、拾い上げていくことができたらな って。

 

そう思って、このタイトルにしました。

 

 

ここ最近、この気持ちを忘れかけてた気がします。

「慣れるのは大事なことだ。しかし、慣れてダレて崩れていくと去るしかない。

そんな仕事はするな。」

先日、職場の先輩にあたる方から頂いた言葉です。

 

シャッターチャンスは日々の生活の中にもたくさんある。

だから、その一瞬を逃すことなく自分のものにしていく。

そういう姿勢は自分を変えていく1つの方法だと思います。

 

私にとって、文章を書くことはなかなか骨の折れることです。

(特に長い文だったり、自分が思っていることを書くとなると)

でも、うまく付き合っていれば、自分が何を見ているのか、感じているのか

そんなゆるやかな瞬間を切り取る武器になるかもしれません。

それがいつの日になるかは分かりませんが、そうなれる日を夢見てこれからも

緩やかにぽちぽちと書いていけたら と。そう思っています。